Kiki Smith

A translation by Ryotaro Hoshino of the interview of Kiki Smith by Carlo McCormick
This translation is based on the original English text from:
JOURNAL OF CONTEMPORARY ART
http://www.jca-online.com/ksmith.html

Accessed on 26th Dec 2015

キキ・スミス

 多岐にわたる(しばしば工芸的な)メディアを駆使し、コンセプチュアルと描写、フォーマルと口語、科学とスピリチュアル、政治と個、また医学的正確性と彼女の姿勢や表現に見られる抽象的隠喩の間を常に行き来するキキ・スミスの芸術は、80年代を通しそしてこの時代においても断固とし、たゆみなく、憑りつかれたように執拗な追究を、単一でありながら広大な人間的経験である身体に捧げられてきた。ある時は神秘的、形而上的、心理学的、私的に内省的な、また広く多様な解釈が可能なフォーラムである人体は、一時にイデオロギーと美学の舞台、もしくは拮抗する社会的、政治的、文化的アジェンダの紛争地帯を示唆する。シャーマン、理性論者、心理学者、生物学者、解剖学者、人間主義者、活動家、批評家、鑑定家であるスミスによる形而上的人体の描写と論考は固定、画一、完結、繰り返し、欠落のどれにも接近したことがない。現実にはほぼその逆に、スミスは更に拡大的な定義と増幅する共鳴を、彼女の主題に生来的な私的また集合的含意へと提示し続ける。社会が遂に医療、性別、性そして自我といった、スミスが現在に至るまで常に立ち向かってきた、結局は逃れることのできない課題にますます直面することを強いられる中で、アートシーンは漸くスミスの芸術に特異な不可思議や美やエクスタシーを深く理解し、しかと抱擁するに至った。(マッコーミック)

カルロ・マッコーミック: 性や象徴といった問題に対するあなたの作品のとても繊細なアプローチの一つは、あなたの素材の選択にあるように思えます。時にはわざと「女の子っぽいアート」を行っているかの様な。

キキ・スミス: そうだと思う。あるとき知人に、私や私の知り合いの女の子たちが行っていることを真剣に受け止める人はいないだろう、って言われたんの。なぜなら私たちは段ボールとかを素材に使ってたから。たぶんそれから5年ぐらいして、私は「オーケー、 ファック・ユー、 これからは全部完全に破壊不可能な作品を作ってやる。誰も私から奪うことはできない。お前らが私の作品をクズだって言えても、少なくともそのうち勝手に壊れるからって理由でクズとは言えない。」って言って。それからしばらくはブロンズで作品を作ってた。コンクリートでも作ろうとしたんだけど、そのとき「ちくしょう!」って思ったの。それを好きには思えなかった。私はデリケートな作品を作るのが本当に好きなの。おそらくそれらを「女の子の素材」って呼ぶことができると思う。でもそれらはただ女の子に連想されるってだけ。ペーパーマッシェとか柔らかい素材。私はそれに対する究極的な忠誠心はまったく持ってない。ほかの素材も問題なく使うけど、でも私はその儚い性質が好き。身体にまつわる作品を作る中で、生命の破壊不能と付き合って、その生命は私たちを前進させる凄まじい威力。と同時に、それはただ突き通すだけで死んでしまうということでもある。私はいつもこの生命の両極端と付き合ってる。私にとって紙を使うことはとても頑丈なの。私が紙で作る彫刻は、保管のために使われるとても頑丈で強い紙で作られている。実際よりももっとずっと儚く見えるから、ちょっと騙してるみたいだけど。

マッコーミック: 生命力というエナジーと、身体の脆さや終末性の間にある対極性について、人がもっとも一般的にこの二極性と折り合いを付ける方法はスピリチュアルな力という観念によります。あなたの紙の身体には、まるでそれらは形而上的体験への槽であるかのような、神秘的存在感があります。

スミス: そう、でも私がそれらを作ったのは、5年前から作りたくて最近ようやく作る機会を得た作品、封筒としての皮膚、について考えるため。こういう境界線はいつも普段の生活の中にあるものだけど、肉体的生活の中にもある。皮膚は人体の限界の表面、または境界線。本当はとても多孔的な膜だから、ミクロレベルにおいては何が内側で、何が外側かという問題に辿り着く。何時も何かが私たちを通り抜けてゆく。私たちの表面はとても貫通性があって、内と外を隔てる壁っていう幻想を私たちがもっているだけ。最近はもっと多くの人が皮膚を、修復や様々な役割を担当する体の臓器として話すようになった。私がしたかったのは何の中身もなしにその形を作るということ。それらはただの抜け殻で、紙を使うことで、まるで皮膚でできているかのようにとても軽く作ることができた。あなたの意味するスピリチュアルな性質は分かるわ。私のアトリエで、ただスペースを作るためにこれらの1つを隅にぶら下げたんだけど、女兄弟のベベが他界した直後にそれが宙に浮いているのを見て魂みたいだなって思った。エイズで危篤にある私たちの周りの人すべてとは、物理的にはもう接点が持てないんだけど、でもまだ私たちの人生に必須っていう存在感の漂いを私たちは感じている。この体が隅にぶら下がってたことで、私はこのことを思い出した。それでこれらの人体でこのことのインスタレーション作品を作ったの。

マッコーミック:でも、最初はそういうつもりではなかった?

スミス:そう、それは私が後々たどり着いた関連付け。当初は単に形についてのものだった。アクイナスが物質から離脱した形について語ったことがあって、それは私の芸術の根底にある思想なの。多くの私の作品は、形を物質から切り離して、そこに何が現れるかを見るようなこと。ある意味、それは私が初めて具象的彫刻を作ったときで、それまではいつも内臓の彫刻を作ってたから。私は外側を作ったことは全くなかったし、。私は人格が好きじゃないから、たぶん外側をかなり怖がっていたと思う。私はそれを特定の人の特定的な何かにせず、ただ普遍的な人体の経験を話したい。皮膚とでは、私たちは個人の特徴や人種といったすべてに巻き込まれてしまう、でも肝臓はもっと不特定的。私たちは肝臓から、性格という明快なアイディアは汲み取らない ― たぶん肝臓は実際には人格を持っているんだろうけど、私たちはそれをどう読んだらいいかを知らない。紙の人体彫刻はもっとスピリチュアルな意味合いを帯びるようになった。何故ならそれらには重さがなく ― 透き通って、脆く ― 超越的な性格を持っているから。

マッコーミック:あなたの芸術をこれほど強く、共鳴的にするものは、一部に、目を見張る簡潔さ、率直さと純粋さであって、これは見る人に、何故、という疑問を投げかけます。何故この臓器?誰の臓器?何故空間で他から離れ、孤立しているのか?何故ガラスで出来ているのか?私たちは、何が私たちを感じさせ、考えさせ、そしてそれが何故かということを、自身に問いかけずにはいられません。観る人に、それが何を意味するかを語らずに、それは挑発的に不特定なままでいます。私たちは特別な何かや絶対的な重要性、意図、意味や理由を読み取ろう試みるけど、実はこれは単純に基本的な好奇心です。

スミス:そうね、私はいつもとても開放的で、誰でもが自分自身のアイディアと反応とで関われる作品を作ることが好きなの。誰もが既に全てを知っている。何かを作って、「これに注目して!」とか「一瞬これに集中して!」とか言ってる様なもの ― マントラみたいな。私たちはそれぞれの引き出しを持っていて、独自の関係性を見出すことができる。その何かが十分に共鳴して、私たち自身の生命について考えさせてくれることができるといいなと思ってる。たぶん私は自分がすることに対して、とても特定的で、私的な理由を持っていて、時にはこれを知ってたり、知ってなかったりするんだけど、人にこの何故かということを話すのは必ずしも面白いことだとは思わない。

マッコーミック:人の人体との関わりはとても私的なもの、でもまた一方では普遍的なものです。

スミス:その通り、だから普遍的なの。でも文化的であると思う。ある特定の文化においては、人はX分の異なる反応を示すって言うことが言えると思う。私の友達に産科病棟で働く人がいて、彼女は、違う国籍の女性は異なる出産をするって言う。私たちは、全ての人体の経験は普遍的であるかのように振る舞っているけど、そうじゃない。これについて私たちは違う態度と認識を持っていて、事実、肉体的にも全く異なることをしている。出産中とても静かな女性もいれば、罵声を上げる女性もいる。人は同じことを経験しない。生理学的にはある種のことを同じようにしていて、例えば世界中どこでも、人は笑顔としかめ面を理解する。でもそれはただこれらの感情に触れるため、こういった人体の一面に注意するっていうだけ。

マッコーミック:あなたはこれに対して主観的な領域を持ち出そうとしているのですか?

スミス:そうね。たぶん、主観性を表現する媒介として、素材の中に。少なくともそれらの素材がどのようにそれを私的なものにするとか、主題に対する私の相反する感情の種類を示すということに関しては。

マッコーミック:それは、人体の外において、あなたがどのように解剖学の文脈を再定義するかということですね。これを行う中で、あなたの作品のどれ程が心理的で、どれ程が純粋に具象についてだといえますか?

スミス:大体99%が心理的なものだ、って答えるわ。でも、やっぱりそうではないのかも。誰かが私について書いた記事を読んでた時に、自分が扱っていた二つの生体システムは、私の体の中でも弱いシステムだってことの気づいたことがあって。結局私がしてたのは、ある種の自己治癒だったってことは面白いと思った。私の体の中で生来的に弱い部分の構築とマニフェスト。このかわりに医者に行くこともできると思う。それもこの一部ではあるけれど、でもその多くは自己の感情的、または心理的な身体との関係性を追究しようとすることなの。他の部分では、現象学的に「見て、見てこの肌の表面、内分泌器系、体内にこんなに血があるとか、こういったことが社会的・政治的に(なにせ今、社会の色んな構成グループが人体をコントロールしようとして競争しているから)、または身体のイデオロギーと哲学にどう関係しているかを見てみる」ということ。それは人を、私たちの人生の総ての側面を支配するイデオロギーや哲学を見て、検証させようとする ― それが宗教であれ、政府、医療、性別の認識だろうと何だろうと。

マッコーミック:ということは、ある意味、身体を社会から個人へと取り戻すということですか?

スミス:その通り。それを取り返すこと、私たちの頭に充満したイデオロギーから自分自身を離脱させること。人は、私たちが考えるほとんどのことが歴史的(慣習的)なものであるということに意識的に気付いてないかもしれないけど、私たちは500年前の人たちが考えていたことの産物にすぎない。この擦りつけられた道徳的何某を抜きに、形を見ようとすることで、私たちはこういった全ての思想から解放され、より冷静な視点を獲得することが出来ると期待してる。この人生において私は、自分の精神に内面化されたり、日常的に対面する政治的、社会的これらすべてのイデオロギーにとても圧迫されていると感じる。身体はこういったすべてが上演される江分利満みたいなもので、血友病の私たちはこういった外からの勢力、バンパイアに襲撃されて、なんとか止血しようとしている。

マッコーミック:バンパイア、狼男、フランケンシュタインといった後期ロマン派から来るゴシック怪物の説話は、社会、科学、テクノロジー、医学(これらはいうなれば人類そのもの)、得体知れずで形のない勢力によって身体が瞬く間に変容され、頽廃され、変異させられることに対して文化的に感じられる、原始的な不安感を伝える恐怖症的寓意のようです。

スミス:そう、フランケンシュタインは今の私たちの体が何であるか表す寓意 ― 兄弟の肝臓、誰かの眼、そして幾多の移植手術。私たちは自分の体を自分の要塞、自己確立の為の領域として考えがちだけど、かなりのスピードでそうではなくなってきている。

マッコーミック:僕たちの友達のマイク・オスターハウトの叔父が最近亡くなられたんだけど、その叔父は最初期の心臓移植患者の一人だったんだ。最後の心臓は5個目だったらしい。

スミス:わぁ、本当?欲張りな奴だな。それは単に心理的なだけじゃなくて、色んな意味で興味深いこの身体が、今何でこんなに面白いかを語るものね。たとえばもし、心臓とかそんなイメージを取り上げたとして、つまるところは体に血を送るポンプっていう、このものを取り巻く意味を調べてみること。私には、こういった文化的因習や、もし対象をそういったものから取り放ったら、もしくはそのいくらかは受け入れても全てを受け入れなかったらどうなるだろう、っていうことを考えるのが面白い。ほかにはどんな解釈が可能だろう?

マッコーミック:人々の身体の認識に最近どんな変化があったと思いますか?私があなたのことを知るようになってからは、あなたは人体解剖における生物学的原理への、ある種医学的に冷徹な興味を持ち続けてきたと思います。でも、数年前であったら一般の人はあなたの作品をおぞましいとかグロテスクだと見ていたところ、今ではもっとより広く評価され、ニューヨークのMoMAといったようなところで見られるようになりました。

スミス:身体を政治的、社会的な武器や領土として見る人々の意識はエイズと深い関係があると思う。これは私たちの身体の心的イメージをかなり推進させて、ただ単に私たちを捕虜にしているとか、不安にさせるとか、快楽を感じさせてくれるもの、以上の何かにした。身体は多様な価値観やアジェンダによってひどく操られる、社会的有機体であるということに私たちは気付かされたの。

マッコーミック:これに対してフェミニズムは大きな影響を与えてきたと言えますか?

スミス:もちろん。身体の所有権や、家父長制、医学、宗教、その他いかなる形式の組織的抑圧からの身体の再獲得に対する私たちの意識に関しては。人種差別や性差別を正当化するものの多くは、私が思うに、私たちの身体の認識と関係している、そしてその中にある二極性においてはすべてが砕け散っている ― 例えば肉体や物質的世界に近いものはいつも蔑まされ、社会の構成部分としてみなされない。肉体労働者や産婦、地に近ければ近いほど、科学者や医者といった人間よりも重要ではないとされてしまう。これは私にとっては、キリスト教の中にあり、また、資本主義が宣伝し、利用する軽蔑。私や多くの人に重い痛みを与える、それそのものが不快とみなされる肉体的なものとの関係がどのようなものかを、私たちは身体を通してみることができる。これらすべての矛盾を一人の生命に抱えこむことはとても困惑的であり、人の人格に相当違和感のある形で現れてくる。テクノロジーが人体を変えてゆくあらゆる様、人工移植、人工臓器、割礼した陰茎の包皮から培養された皮膚、また全ての新しい生殖方法、例えば代理母、人工授精、試験管ベイビー、子宮摘出や人工妊娠中絶は、人の生命に対する眼差しに計り知れない派生的影響を与えている。今はとても違う、境界線の感覚や、自分が誰で何なのかという定義を変えるのは、私たちにとって大きなこと。たぶん私はこういったことに関して、作品の中で私の立ち位置をはっきりさせようとしているだけだと思う。

マッコーミック:過去一世紀における身体とその境界線のこのような政治化において、特に極端な一面としては刑務所の台頭があります。あなたが長年に渡り、その革新的な活動が理由でアメリカのハイセキュリティーな連邦刑務所に長期で収容されている何人かの政治犯に、定期的に面会しに行っていることを私は知っています。この形態の人間の根本的権利と尊厳の肉体的拘束と社会的廃止を、身体を通して行われる他の形式の抑圧や排斥と比べてどのように見ますか?

スミス:基本的に刑務所っていうのは、政府が身体のコントロールにより、ある一部の人口全てを拘束することで、その他の人口に利益をもたらそうとするってこと。今日では、過去の歴史上のどの時点よりも多くの人が刑務所に倉庫詰めにされている。これは、継続的に機能するためには、変化を起こそうとしたり、特定のイデオロギー的な要因を分離しようとする人々を人口から排除し、刑務所に収容しなければならないという今日の私たちの社会をとてもよく語っている。

マッコーミック:社会的人体の集団切開か切断の様な。

スミス:そう、それは本当に身体のコントロール。刑務所ってとてもコントロールに夢中で、123時間人を閉じ込めている。収容者は四六時中カメラで彼らに監視され、シャワー室に行くのに手枷をはめられて、鎖でつながれる人もいる。裸身での所持品検査、肛門内と膣内の検査。これがどんなふうに人間が肉体的に脅迫されているかということ。イリノイ州のマリオンにはただ単に脅迫感のレベルを維持する為、ランダムに巡回して市民を撲り付けるチームがある。水を汚染して、超高確率の幼児死亡、流産、ガン発症を引き起こす奴ら。身体をコントロールすることで私たちのイデオロギーを変えようとするってことだけど、成功しはしない。今は個人の動きを追跡するブレスレットがあって、自宅軟禁の強化ができる。こういったのが受け入れられているのは、切り取って、隔離して、それでもう治したっていう西洋的な病の考え方を私たちが持っているから。でも実際にはそれが暴動であれ、たちの悪い薬物乱用であれ、何であれ、その根本原因には全く取り組んでいない。何も直りはしない。ただ絆創膏効果があるだけで、しかも、その全てもほんの23百年あまりの医学による疾病モデルから来たもの。

マッコーミック:それが人気、流行のトピックとなるずっと前からあなたの作品は身体の政治や医学的表現を扱ってきました。この類のテーマがアートシーンにおいて、身体に関する怒涛の展示の数々と批評と共に、新たに注目を集めるトレンドとなった時、あなたがこのアートシーンに対して嫌悪を示し、一時的に流行するグループやムーブメントと一括りにされてしまう可能性に懸念を抱いていたのを覚えています。

スミス:私は自分の芝生を守ろうとしていたんだと思う。本当はそれでいいと思ってるの。もっと多くの人が人体について話していて、それは私にとって面白くていいなって気づいた。誰でもが入ることのできる広大な領域。風景画を作るみたいなものかな ― 数百万の人が永遠とできて、結果はいつも異なる。自分には全く思いつかない側面が沢山あるし、思いついても手を出さないものも。で、誰かがそれをして、私たちはしなかったということを気にしないし、それらが存在することをただ嬉しく思う。私は、その美術界でのキャリア何某については、流行りの一部にはなりたくないの。私は長くアーティストでいるつもりだから。1カ月で2000の展示に参加して、それがキャリアの終わりっていう風にはなりたくない。部分的には女性であることで、なぜなら女性作家は長い間アートシーンであまり人気じゃなかったし、家に一人でいて、すべてを自分でやって、誰かが褒めてくれるからそれをするんじゃなくて、自分にとって必要だからするっていう。だから流行とは関係なくそれをし続けたいと思う。もちろん家に帰ってたった一人でするっていうこともできるけど、アクセスがあるっていうのはいいなと思う。ある意味、全ての最近のこのテーマに対する好奇心は流行りで、この結果ある程度においてその重要性を軽視されている。でも私は身体を扱う他のアーティストに会って、数多くのとても興味深い作品を見るようにもなった。どんなアーティストがまったく違った手法で、それに取り組んでいるかを知るのは刺激的なの。他人が、自分が全くしたことのないことをして、自分よりももっと推し進めている中で、自分の限界を見る機会。私はコンセプチュアルに作品を作った次の日には、特異で私的なことをしてる、っていう点では身体をとてもエキセントリックな眼で見ていいると思う。何でも思いついたらやってみるから、決して論理的でも、直線的でもない。アーティストたちの身体に関する考え方が、私のといかにかけ離れているかというのを見るのがとても好き。例えば、身体との関係の中で見た、哲学や科学の歴史について語るオルシ・ドロゼィク。アンドレス・セラーノ、アレックス・グレイ、ブルース・ナウマン、、、。政治的な語句でも、スピリチュアルな観点からも語ることができて、無限の示唆に富んでいる。真ん中を覗いて、周りに何があるか見てみるんだけど、そこには何かが沢山ある。

マッコーミック:この様々な内容の軸や視点は、あなたのアートとどのように交差していると考えますか?

スミス:私の制作は、自分が何に印象を受けたかによって、色んなエリアを曲折しながら進んでいくの。時には新しいテクノロジーがどんな影響を引き起こすかって考えるのも好きだし、別の時にはスピリチュアルな可能性を探ったり、性別や性を扱っている。それは抑圧や死という悲劇であるだけでなく、私たちの身体の経験は人生の中でも最も深い感動を与えてくれるもの。これはたぶん私はまだよく取り上げたことがなくて、もっとよく考えてみたいの。たった今は、ミルクが出てる胸を作り始めたところ。身体って恵みの宝庫だって感じるから。

マッコーミック:あなたが肥沃さや出産といったことを扱っている時はいつでも、子育てや母性という、女性(つまるところ、子を産むという唯一の、そして最も優先される生物学的な存在理由以外に真の自己表現を見つけられない)アーティストに典型的に期待される側面には全く興味を持っていないように思われます。

スミス:そう、その通り。私は生殖できる女性であることを作品に作っている訳じゃない。私は子供を産んだことがないし、その意味ではそのことをよく知っているんでもない。自分にとっては、誕生についての何かを作ることは、生殖者であることよりも、自分自身に生まれたという事実について作ること。これは全く異なるもの。誰もが生まれてきた。それで私たちはここに辿り着いてる。私たちが生命を生命として維持するため、フェニックスのごとく、生命としての存在を新しく、創り変えるため、何度も何度も繰り返さなければならないことでもある。

 

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