Roni Horn

A translation by Ryotaro Hoshino of the interview of Roni Horn by Claudia Spinelli
This translation is based on the original English text from:
JOURNAL OF CONTEMPORARY ART
http://www.jca-online.com/horn.html

Accessed on 26th Jan 2016

 

ロニ・ホーン

このインタビューは1995年の6月、バーゼルの現代美術館とクンストハレでの展示のオープニング直後に行われたもの。現代美術館での展示は平面の作品に焦点が当てられたのに対し、クンストハレでの「Making Being Here Enough」と題された展示ではロニ・ホーンの制作のすべての側面から選ばれた作品が並んだ。

クラウディア・スピネリ:あなたの制作には様々な側面があります。素材、形、スペースといった問題に集中した作品もあれば、言語や文学を基にした作品もあります。インスタレーション作品の隣には紙の平面(顔料を使ったドローイング)作品、写真を含んだ本、あなた自身のテキストが設置されています。これほど多くのメディアを使いたいという気持ちはどこから来るのですか、そしてそれらは内的にどういう繋がりを持っていますか?

ロニ・ホーン:それは大きな質問で、正確に答えるのは難しいね。一番近いのは中性的に育ったことを話すことかな。始まりは男性でも、女性のものでもない私の名前。振り返ってみると私のアイデンティティーはこの周りに形成されたように思える。あれでもなければ、これでもない、ってことの周り。私はこういった単一的なアイデンティティーには馴染まない。たぶんこれが多くの方法で制作する選択肢を持つベースかな。見る人がそれに慣れすぎたり、それに関して憶測することが、決してできないような発展の仕方を作品は有している。期待を砕くことで、もっと直接的な体験を提起できる確率が上がる。単に見る人の欲求を満足させたり、知識の確定化をするものではなく。それよりも質問すること。私は答えそのものには興味がない。答えは閉鎖を生み出す。言ったところで答えがあるとは思わないし、それらはいつも暫定的。私は部分的にはこう思う。

スピネリ:慣れてゆくプロセスに対抗すること。観覧者と同じことはあなたにも当てはまりますか?

ホーン:うん。特にアーティストとして ― 可能性を与えてくれるのは決定していない状況。おそらくこれは創造のプロセスの一部分。自ずから逆戻りできない成長過程 ― 締め出してしまうのではなく、開けて喚起する対話。内容を既に知っているようなことをするのは想像できない。 例えば、本と最終バージョンのヴェルヌの旅行(以前、二つの短めのバージョン、一つをメンヒェングラートバッハに、もう一つをパルケットに作った)。私はその本を作っている時にようやく初めて、ジュール・ヴェルヌの作品「地底旅行」のフィクションを現実のとおり明らかにしたいんだと気づいた。この時点まではフィクションにおけるパラドックスに対する直観を頼りに制作していた。その本の最初は、地球への入り口を覆う氷河の航空写真。その氷河にズームインして地上レベルに移る。地上レベルでは全ての驚異的な地質学的イベントを見ることができる。でもこれは全て、アイスランドの平凡の一部として起きているに過ぎない。ヴェルヌのフィクションはまったくフィクションじゃない。彼が書いた入り口、冒険、私は地球の中心も実は存在するって測ってる。でも彼はアイスランドを訪れたことがなかった。だから彼にとってそれは純粋なフィクションだった。ヴェルヌの旅行は地球の中心で終わる。中心の一連のイメージは霞がかった地平線のない海原から、静かな海、そして最終的に絶対的地球の中心である大渦巻へと移っていく。でも私は、それがとどのつまり紙上のインクになるまで、その大渦巻へズームインする。つまりはこれかな、イメージが切り崩されて、例外的なまでに平凡な現実になるから。平凡と触知の永続、のマニフェスト。当初パルケットにこの作品を作ってた時は、この結末を知らなかった。それが私の中で明らかになったのは、その作品と一緒にいて数年した後。この本は、人類の状態に対する、また、人間とこの惑星との関係に対するパラレルとして読むこともできる。平凡の威力とそれが物事を同格にする様への隠喩。

 私にとってはヴェルヌの旅行は歴史的発展への寓喩でもある。人は、行き過ぎた忍耐から、特に地球規模の生活の質の減少に対するものから、苦しめられている。正確に言えば、空気や水といったきれいな共用資源の確保が難化しているということ。人はこれを真剣に捉えていない、ただ「ああ、本当だ、私体調悪いな。」と言うだけで、関連性を見出していない。ガンは疾病であることに加えて、全ての、たとえ見えなくても私たちを深く影響するもののメタファー。受動的であることのメタファーでもある。ある意味これは、この本の中でも扱われているし、大概私の制作に一貫して存在する。いつでも、私たちには見えないものが、私たちに見えるものを大きく影響しているという経験がある。例えば「Pair Field」のこれらのオブジェクトが堅固であるという現実のように。これらはとてもシンプルなものだけど、これらの小さな物質はある種のとても特定的な存在感を持っている。存在感は、そのものが、そのように見えるもの、である時に成立する。それらは図じゃない。だから私は、不可視的なものではなく、無視的なもの、っていうのはそこに在って私たちが感じられるというもの、を意識した制作方法をとっている。無視的であることは可視的であることと混在していて、広義の感知可能であること。

スピネリ:それがあなたの行いたい、物事を透明化し、表面下に何があるかを明らかにするということですか?

ホーン:私は感知可能な経験をもっと実在させたいと思ってる。人は自分で気付いている以上の知識を有している。私は心的/非物質的なものだけでなくて、肉体的なものも提示することで、観る人に届こうとしてる。観る人はそこにいることの責任を持たなければならない。そうじゃなければ、そこには何もない。「Making Being Here Enough」はただそういうこと。過去や未来を蔑ろにするという意味で言っているんじゃなくて、ここに/今在るものを能動的に受け取るということ。食べるみたいに。取り込むこと。

スピネリ:アーティストとして成功しているあなたの作品は注目を集め、展示には一般の強い関心が向けられます。これはあなたにとってどんな意味がありますか?

ホーン:そうだな、私は20年間活動してきて、これは私の人生の半分よりちょっと長いくらい。バーゼルやハノーファーでの展示カタログには1980年に制作した作品も載ってるんだけど、それらは私が今もコンセプト的に強く感じるもので、過去15年間に渡って発展させてきたもの。でも私の作品の多くは、完成してから10年かそれ以上するまで公に展示されない。

スピネリ:20年はとても長く感じられます。あなたの作品はどのように発展し、変わりましたか?また制作のプロセスは?

ホーン:全ての私の作品への入り口は、アイデンティティーの百科事典というアイディア。

これは私にとってとても大切な本、「To Place」というシリーズに表れている。1988年から取り組んでいて、本当にこれは心臓部。一連の本で、一冊一冊が全体の性格を遡及力をもって変えながら加わっていく。で、最初のボリュームはドローイングの本のように見える。2つ目は完全に違うテーマだけど、同じフォーマット。3つ目のボリュームで、人は「うん、この本たちはシリーズみたいなものだから、何らかの関係性があるに違いない。でもそれがなんだかはさっぱり分からない。」って感じ始める。それで4つ目のボリュームにはテキストと写真がある。この本たちはとてもゆっくりした人生の蓄積のプロセス。私の人生。今は5つ目のボリュームがあって、やっぱりまた全く違った焦点。根底にあるテーマは同じ ― 私とアイスランド、観る者と風景。これらはお互いを、そのものの中に定義する弁証法。

スピネリ:あなたのインスタレーションに比べて、その本を見て、読むのはとてもプライベートな対峙、、

ホーン:それはとても親密。本って、性的ではなかったとしてもかなり官能的な体験で、私はこれらの本を使って、人をこの11の親密な関係に集中させる。本はある種の鏡になる。本には内と外がある(多くのものにはこれがない。ただ外側があるだけ、例えばイメージとか)。中に入ってみると固定された順序があって、前と後ろがあり、暗示される物語がある。これは全て、私が使う構成の一部。今私は6つ目のボリュームを作っていて、で、やっぱり全く違う。それは一人の女性、それだけに集中している。場所としての顔。頭部のかなりの至近ショットの一連。私はマーガレットを野外、水中で写真撮影していた。水と気象がとても重要な視覚的文脈となる。アイスランドでは、水と気象は支配的な現象。それで私たちは移動しながら、水中に、気象の中にいる彼女を私が撮影する。それはとてもシンプルな関係 — 私は彼女に何をするようにも言わ、彼女がただ水中に入って、私がその彼女を撮影する。陽の光の中で、開放的で威圧的な空の下に雲があって ― 水が彼女の周り全てにあって、体の上、髪の中、空気の中にも。

 アイスランドの水のある風景の多くは、メジャーな観光スポットでもある。それで、ただそこにいるからっていう理由だけで、観光客と水の写真を撮り始めたんだ。これはもしかすると別のダイアローグ、別のボリュームになるかも。観光客の存在は、観覧者の風景、そしてその人の視界の風景として、私に興味を抱かせる。あと、景観の中の廃棄物みたいな異物としても。これはポジションの移動、結局この作品のどこにも見られるテーマ。ここでは風景は入り口。でももし典型的な風景を考えるとしたら(例えばナイアガラ・フォールズ)、それは顔に平手打ちを喰らう様なもの、殺人を目撃しているような。私が話しているのは、今在って、人が相互に交われるものとしての風景。観光客と風景の関係は多くの場合、非常に些細で希薄。彼らは事件現場を探している。だからこれらの写真の中に、私たちは最もセンセーショナルな、アイスランドと観光客の地質学を見ることができる。

スピネリ:あなたはよくアイスランドを訪れますが、アイスランドはあなたにとって逃避のようなものですか?

ホーン:うん、逃避の逆なんだ。アイスランドは純粋に、遠くに離れた場所じゃないのさ。それは人間の欲望によってゆっくりと変貌させられる凡庸な所。私はそこに1975年以来行ってる。過去10年には相当変わった。でもそれは私に「おっと、この衰退を記録しなくちゃ。」って思わせるようなものではない。

スピネリ:この変貌は、しかしながら、対峙のしかたを変えたに違いないと、、

ホーン:でも私はその変化を受け入れている。人が同じものとずっと一緒にいられるとか、同じものを所持し続けることができる、っていう考えは変だと思う。例えば車を買って、それが50年後にも一様に変わらないとは全く期待しないように。私は変化が起こりうると思っている。もちろん私は、人類、またそれと非人間的世界との関係に対してかなり懐疑的でいるし、厳しい目を持っているけど、アイスランドに行くことでこういったことから遠ざかろうとしているんじゃないことは知っている。アイスランドは、私にとって行動の中心地。私はニューヨークで育ったから、人は、私がその狂気沙汰から逃避しているように思うみたいだけど、全然そうじゃない。アイスランドに行く時は私が緊張する時、「うわ。これは烈しいな」って。以前作ったドローイング「An old woman who has passed her life on a small Scottish cliff island is uncomfortable on the mainland because she can not see the edge(スコットランドの小さな崖に囲まれた島で育った年配の女性は本島にいると端が見えなくて落ち着かない)」

は私とアイスランドの関係にあるパラドックスを語るもの。私はニューヨークにいる時に同じ問題を抱えている。慣れすぎているのさ。アイスランドは、結局この長い時間を過ごした後で、私には親しみのないもの。部分的にはそこで起こっていることが理由で、でもあとは、それが私には永遠に異質なものでもあるから。外部から来ると物事を見るのがもっと簡単になる。もっと客観的な関係。でも鏡のようなものでもある。それは砂漠、いかなる砂漠、での体験を思い出させる。灰と氷、熱と砂。砂漠に行く時、人はその人自身になる。砂漠は人に何も与えてくれない。もし自分の内側になかったら、それを砂漠から手に入れることはできない。意味が伝わるかな?

スピネリ:あなたが今見せてくれたドローイングはインスタレーション作品の「How Dickinson Stayed Home」を思い起こします。彼女は家から外出しなかっただけでなく、値すべき成功を得ませんでした。彼女が生きている間にはたった7つの詩しか出版されず、そのほとんどがもっと型にはまったものとするために編集されました。彼女は犠牲者のようです。あなたは彼女と通ずるところを感じますか、または彼女はあなたにとって理想的でありますか?

ホーン:私にとってはそんなに重要じゃないかな。ディキンソンを理想的だとは考えてなくて、彼女は自分自身の為に必要なことをしてた誰か。人は「ああ、彼女はレズビアンだったんだよ」とか「彼女は男を怖がってたんだよ」とか言うでしょ。私たちが、彼女がどんな人物だったかってどう考えても、それは関係のないこと。現実には、彼女はするべきことをする為に、世界に繰り出して行って、結婚して、参加して、ってする必要がなかった。彼女はなぜかこれを知っていて、その観点からは全てが明快だった。彼女が家に居続けたのは能動的な決断だったと思う。寝室の窓から外を眺める時、彼女は世界のすべてを見ることができた。彼女の作品を読むと、信じられないくらい地に足のついた人物だったってことが分かる。

スピネリ:では最も大切なことは、どうやってものを見るか、そしてどのようにするかということですか?

ホーン:その通り。「どうやって」ということ。唯一の真実の質問は「どうやって」。「なぜ」と「なに」は芸術的な模索においてはあまり関連性がない。取り巻く世界の中心にある何かというアイディアに基づいた「When the How and the What are the Same」という一作品がある。決して変わらない物体、そこでは行動と存在、「どうやって」と「なに」が1つに溶け合う。たとえどんな視点から見ても、それは同じもの。とても微かな作品だから、写真が実際の作品を本当に伝えているかわからないけど。あるスペースに入ると、球体が、他のどのような球体も同様であるように、世界の中心に位置している。でもスペースに足を踏み入れると、2つ目の球体が見えて、2つの同一の物体、至近距離にある2つの中心、の競争関係になる。それで、こういった全てが観る人を、ある種の均衡を崩された平静に取り残す。ただそれだけ。一 方で「Asphere」は、微妙に球体性をゆがめられた球的物質。その歪みはとてもささやかで、ほとんど感知することができない。だからそれは球じゃなくて、他の何でもない。私にとっては中性に対する敬意の表明の様なもの。中性は、アイデンティティーの原点としての差異の統合。あるものと、他のものを繋ぎ合わせる時、合成アイデンティティーに接近し、名付けることが簡単ではなくなっていく。相互に排他的な形態のアイデンティティーである、ジェンダーの様なものではなくてさ。そしてこの体験は、このことを少し感じさせてくれる。何故ならそれは球ではなくて、他に独自のアイデンティティーを獲得しないから。人がそこから立ち去る時、それは名無しのままでいる。固定されることがないというのが本当に重要。誰かが、それは最初は馴染みあるもののように見えて、それと一緒に時間を過すと、もっともっと馴染みのないものになってゆく、ってい言ってた。

スピネリ:あなたの作品は、今日のジェンダーに関する議論はあなたにとってそれほど重要な論及点とはならない、と人に思わせます。これは正しいですか?

ホーン:そうだな、関心ではあるけど、文字通りの意味ではそうじゃないかな。性やジェンダーは新しい流行のテーマで、私はなるべくこれを避けようとしてるんだ。名前を付けられることに対する抵抗と、そのような形で知られることからは遠ざかっていたいという希望。でも私の性とジェンダーの問題が、私が制作の中でしてきた決断や、私のこの世界での振る舞い方において重要であることは間違いない。それを決して否定はしない。だけど同時に、女性、特に女性アーティストと名付けされることに興味はない。私が女性アーティストであるかないかの問題は質問者のもの — 私のじゃない。だって誰が形容詞になりたいのさ。もし名詞になれるなら、なろうよ。なんで補足になりたいのさ。アーティストのジェンダーを識別することは、アイデンティティーを希薄化する一手段。私はとってもプライベートな人間。でも作品そのものから、人は私のことをよく知れる。

スピネリ:さっきアイスランドでのマーガレットとのプロジェクトを話しました。それはとても私的なものですか?

ホーン:そうだね、そうだと思う。でも彼女の私との関係がどんなものか、人は決して知ることができない。人はそれに対して、多くのおそらくエロティックな推測をするかもしれないし、それも作品の一部。この作品をそういうふうに読む選択も絶対にある。

スピネリ:あなたの作品の構造はとてもオープンで、というのは、見る人は作品に対するそれぞれの自身のアイディアを持つことができ、自分のフィクションを構築することができます。あなたはこれを気にしますか?そしてあなたはどれ程オープンに作品を理解されたいですか?

ホーン:結局人はそうすると思う。半分がその人の欲望で満たされていない観点から逃れることは到底できないと思う。それを回避する作品なんてないと思う。でも「Haraldsdóttir」と題された作品は、これは次の本なんだけど、間違いなくこれを励ましている。あとこれは独立して、「You are the Weather」という写真を使ったインスタレーション形式の、驚くほど異なった作品としても存在している。私はマーガレットをフィルム200本分撮影したんだ。数年がかりで100枚の写真に絞り込み、彼女が観る人/撮影者と直にアイコンタクトしていないものを選り分けた。何故なら彼女がアイコンタクトしている限り、観る人と対象との関係は非階級的であり、また覗き的性格を持たない。人はマーガレットを、従来的な意味でいうところのヌード写真として観るわけではない。私たちを観ている女性を、私たちは観ている。このインスタレーションはこの執拗な視線からできている。これは親密さについて、親密を作り出しながらも匿名であり続けること。彼女は彼女のアイデンティティーを全く明かさない。私たちが代りに得るのはアイデンティティーの集積。人は、正確には100回、彼女の顔を見るけど、彼女は決して同じ女性のように見えることはない。彼女はずっと同じように撮影されたし、メイクアップもなく、何の指示も受けなかったけど、どの場面も極端に異なる。彼女と気象、光、風、何でもそこで起こっていたこととの関係性の為 — 彼女はこの広範囲の人格を呈する。この作品を作るなかで、私たちは気象であるということに気付いた。明らかに、気象は私たちに常に影響を及ぼすもののひとつ。相互的に、私たちは歴史上において遂に、人類が同等に波及力のある影響を気象に及ぼす、というこの地点に到達した。それでこの様相で、気象と人類はスパイラルし始めている。

スピネリ:これはつまりどのようにアイデンティティーが構築されるかということ。あなたはこれを相互作用、自我とその周りとの対話、もしくはこれを外界の乗っ取りと考えますか?

ホーン:私はその両方だと思う。自分が責任を取っていると考えたい人にとって、たぶんそれは対話。自身の人生をとても受動的に生きている人にとっては、その中に私たちが受動的に参加する内的活動。さっき、癌は無視的な部分の世界に対するメタファーってことについて話したけど、この受動的な態度はその中で大きな役割を持っている。私にはこの莫大な受動性が感じられる。内に生命を持ったすべてのものを、それは窒息させている。

スピネリ:あなたを道徳主義者と呼ぶのはおそらく大げさですが、あなたの作品の道徳的意図は何ですか?

ホーン:私の作品に道徳性はある。でも道徳的意図があるかどうかは分からない。私はこういう疑問を提起しているけど、それに対する反応に命令はしない。芸術的創造において、自分が誰であるかということを放棄しないのは不可欠だと私は思う。

スピネリ:最後の質問 ― ロニはあなたの本当の名前ですか?

ホーン:うん。私の本当の名前。私の運命。

 

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